日本のLGBTをテーマに、ディスカッションの授業をしました。
LGBTとは、レズビアン(L)、ゲイ(G)、両性愛者のバイセクシュアル(B)、心と体の性が一致しないトランスジェンダー(T)の総称のことです。
日本ではまだあまり馴染みのない言葉かもしれません。
LGBTに対する留学生の反応
クラスには5か国の留学生が混在していました。授業の初めに、同性婚の式の様子を見せたところ、8割が笑い、2割は笑わないという感じでした。
しかし、その2割も途中で笑ってはいけないと気づき笑うのをすぐやめた組で、本当に笑わなかったのは1人でした。皆が笑っていたので私からはとてもその学習者が目立って見えました。
私が盛大に笑っていた一人の学生に「今どうして笑ったの?」と聞くと「気持ち悪いですよー」となおも笑いながら答えてくれました。
もう一人、別の学習者に聞くと「ん~わかりません。でもおかしいよ。なんか変」と答えました。
日本のLGBT
日本では依然理解の足りない同性愛ですが、私にとってとても印象的だったニュースがあります。
一橋大・ゲイだとばらされ転落死「同性愛者を差別する社会が、彼を死に追いやった」ゲイの大学教授が指摘(BuzzFeedNews)
一橋大学の学生が友達にゲイだと告げ、告げられた友達がそれを他の人に教えた結果、そのゲイの学生が自殺したというニュースです。
学習者にこれについてどう思うか聞いたところ、様々な意見が飛び交いました。
日本、特に高齢の方はまだまだ同性愛について、「認められない」という意見の方が多いというのは各所アンケートで結果が出ています。これについてもやはりアジア出身の留学生は「私の国も」と言う人が多かったです。
メディアの取り上げ方の問題
同性愛者、特にゲイに対するメディアの取り上げ方に問題があると常々思います。
マツコ・デラックスさんや、クリスさんなど、テレビで見る同性愛者はよく
「あら、いい男」
「まあ、タイプ」
と男性に対する性的なコメントをします。テレビで見るゲイはあのような方ばかりです。なぜそのようなことをするのか。
メディアの性質上、いい意味でも悪い意味でも人の興味を引かなければなりません。そのためなら、人を馬鹿にすること、おとしめることもいとわないのがメディアです。
そして、その映像を見る視聴者に「ゲイはすぐに同性に近づく」という意識を植え付けていきます。それが日本のメディアの現状です。
留学生の国のLGBT
その後、同性愛についての歴史やおねえタレント、さらに2015年6月、米国は全州で「同性婚」を合法と認める初の判断をくだしたこと、そして、日本では渋谷区などが2015年に同性愛者にパートナーシップ証明書というものを発行するなど、様々な動きが起こっていることを提示しました。
授業をしていると、突然一人の学習者が手を挙げました。「どうしたの?」と聞くと、「私はゲイの人に告白されたことがあります」と言いました。他の学習者も同様に「私もレズの人に告白されました」と手を挙げる人がぽつりぽつりと。
「どう思った?」と聞くと、挙手した人達は皆「断りました。でも、今もいい友達です」とまっすぐ答えました。
その後、ディスカッションで同性愛について、”改めて”どう思うか、学習者の国と日本とを比べて何が違い、同じかを話し合いました。
教室にLGBTの人がいたかもしれません。ディスカッション到達までにLGBTの多さは十分に認識したはずです。
私は「LGBTの人がいるかもしれないから、彼らを傷つけないように話し合ってください」とは言っていません。しかし、ディスカッションでは誰も、授業の初めのように笑いながら話す人はおらず、慎重に言葉や表現を選ぶ学習者ばかりでした。
教師の役割は意見の捻じ曲げではない
こういった繊細な問題は授業では避けがちです。しかし、私はそれは間違いだと思うのです。むしろ積極的にやった方がいいとすら思います。
授業で避けるべきなのは教師による意見の押し付けです。LGBTを気持ち悪い、おもしろいと言う学習者がいれば、「どうしてそう思うのか」を日本語で説明できるか、LGBTの方がそれを聞いてどんな気持ちになるかを想像させ、起きうる問題の回避方法を問うのが日本語教師の仕事です。教師はただ空っぽになって、傍で見守る存在でなければなりません。
今回の同性愛ならば、「同性愛に理解のない人は悪」と教師が説くのは、彼らの考えを変えるのは”日本語”教師の役割ではありません。同性愛は単なるテーマです。
テーマについて様々な国から集まった人達が意見を、相手を傷つけずにちゃんと交し合える日本語能力を付け、関係を築けるような日本語能力を身に着けてもらえばいいのです。
アンタッチャブルとされているようなテーマも、これまで培ってきた日本語能力で正しく意見を述べられるようにすべきだと私は考えています。
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