ら抜き言葉(以下、ら抜きと表記)のメカニズムについて、徹底的に解説していきます。ら抜きの解説の後にれ足す言葉について解説します。
ら抜き一覧
まずはら抜きの例を見てみましょう。
寝(ら)れる 起き(ら)れる 食べ(ら)れる 見(ら)れる あげ(ら)れる 借り(ら)れる 教え(ら)れる かけ(ら)れる い(ら)れる 開け(ら)れる 閉め(ら)れる 出(ら)れる 止め(ら)れる 見せ(ら)れる 降り(ら)れる 乗り換え(ら)れる 浴び(ら)れる 入れ(ら)れる 始め(ら)れる …
どうでしょうか。一望してみると、「ん?」と思うものがあるかと思います。ら抜きにはなりやすい言葉とそうでないものがあるのです。
ら抜きになりやすい言葉
ら抜きには可能、受身、尊敬、(自発)の3つ(+1)の用法があります。その中で最も使われる頻度が高いのが可能です。発話する際に、「られる」が可能としての機能を果たす時、ら抜きが起こりやすくなるのです。逆に使用頻度が低い動詞や書き言葉、おかたい文章(論文やビジネスメール、公的なお知らせなど)ではら抜きが起こりにくいです。
「簡単には述べれない」
という文にはかなり違和感があるかと思います。
さらにもう一つ、ら抜きが起こりにくい言葉があります。それは、「長い言葉」です。例えば、「見る」「出る」「来る」というのは2文字でら抜きが起こりやすく、「乗り換える」「考える」「始める」は3文字以上で、起こりにくいのです。実際に文字化してみましょう。
「乗り換えれる」「考えれる」「始めれる」
以下、平成27年度「国語に関する世論調査」の結果から抜粋したものです。
さらに年代のおいても違いが見られます。
ら抜きの見分け方
動詞には3つのグループがあります。可能、受身、尊敬のことではありません。あるルールに従ってそのグループは分けられます。ここから少し専門的な話になるので、日本語文法と国語文法に興味がない方は飛ばしてしまってください。
- まず動詞を「ます形(連用形)」にします
読みます 食べます 来ます - マスの前を見ます
読[み]ます 食[べ]ます 来ます(これは覚えるしかありません) - マスの前の文字を伸ばして言った時に[イ]になるものは1グループ(五段活用)で、[エ]になるものは2グループ(一段活用)です※。します・来ますは3グループ(変格活用または、カ変動詞とも)
※一段活用には数は少ないですが、例外があり、起きます 見ます 借ります います 降ります 浴びます 足ります 着ます などはマスの前が[イ]ですが、2グループです。 - 下の画像のルール通りにそれぞれのグループを当てはめて変形させてください。Ⅰは1グループのことで、Ⅱ、Ⅲも同様です。
機能分化 ら抜きの合理性
すでに五段活用の可能はら抜きで統一されています。「書くkak-u」の可能は以前は「書かれるkak-areru」という語形でしたが、今は「書けるkak-eru」が普通です。一段活用のら抜きはこの現象と同じものと言えます。
さらに、「ら抜き」は「ar抜き」と呼んだ方が正確には正しいです(以下の画像を参照)
「見る」の可能が「見られる」ではなく「見れる」なのは、語尾に「-areru」ではなく、「-eru」を付けるという「五段・一段共通のルール」と言えます。また、受身と同じ語形でなくなるということも合理的だとされる理由の一つです。
つまり、全ての一段活用でら抜きが浸透すれば、動詞の可能の作り方が一本化されるわけです。
ら抜きに目くじら立てる人は未だに絶滅の気配を見せませんが、そんな人達には上の画像を見せてあげましょう。
さらに、こう付け加えるといいでしょう。
「ら抜きっていうのはね、日本人が無意識にラレルの機能を分けようと起こっている現象なんだよ。尊敬は尊敬専用の形、受身は受身専用、そして可能もそう。合理的な流れなんだよ。おじさん」と、さとすといいです。
ら抜きの方言と歴史
ら抜きは静岡県の一部で古くから使われており、また、北陸・中部・近畿地方の一部や、北海道などでも古くから使われているという説もあります。それらが次第に戦後普及したラジオやテレビなどを通じて一般化されるようになったと考えられます。
そして、ら抜きの歴史についてですが、古くは1900年から書物にもら抜きが見られます。
1900年
花生さんも最う席なんかへでなくったって、左団扇と来れる様な訳なんだね」
永井荷風の『をさめ髪』
1918年
「これほど手入れしたその花の一つも見れずに」
葛西善蔵の『子をつれて』
1933年
「銀作は一家を離れて見れるやうになってゐた」
川端康成の『二十歳』
書物に書かれているものとして、新聞も挙げられます。1950年頃には新聞にら抜きが使われています。
そもそもこの「可能・受身・尊敬・自発」の形については長く変化を遂げてきています。
(ら)ゆ 奈良時代
(ら)る 平安時代
(ら)るる 室町時代
(ら)れる➔ 江戸時代はじめ
五段動詞が「可能・受身・尊敬・自発」の4つの用法から可能だけをのけ者にし始めたのが江戸時代はじめと言われています。さらに時代が進み、今から100年ほど前からら抜き現象が進んだとされています。
外国人に質問されたら
S:日本人は「着れます」と言います。でも学校で「着られます」勉強します。どっちがいいですか
T:どっちもいい。以上!
というのは乱暴ですが、実際どっちでもいいのです。正確に言うと、2グループのら抜きは過渡期です。
もし「なぜどっちでもいいのか」と聞かれたら、「難しい話になるけどいい?」といって、上述の画像なり説明なりをするといいでしょう。
4つ目の用法について
用法で3つ(+1)と書いたのは、説明がややこしくなるからです。+1の自発は
この写真を見ると昔ここでよく遊んでいたことが思い出される
という文のレルの部分です。
私は日本語教師として外国人に日本語を教えていますが、さっさとこの機能分化が進めばいいのに、と思っています。
れ足す言葉
まずはれ足すの例を見てみましょう。
話せ(れ)る 行け(れ)る 遊べ(れ)る 読め(れ)る 泳げ(れ)る…
ら抜き言葉とは一段動詞(食べる)に可能の助動詞ラレルではなくレルを付ける事です(食べれる)。
五段動詞(書く)を可能(書ける)にすると、活用のルールが五段から一段に変化する事から「一段動詞(食べる)+れる=可能」というら抜き言葉との混同が起こります。この混同により五段動詞の可能(一段動詞)に更にレルを付けてしまうのがれ足す言葉です。平たく言うと、
一段動詞のら抜き
食べる→可能→食べれる
の影響で五段動詞の可能にれ足すが起こる
書く→可能→「書ける」ではなく、「書けれる」になる
「書けれる」「飛ばせれる」「開けれる」なんて言わないぞ、という方もいらっしゃるでしょう。私もそうです、違和感しかありません。しかし、実際にこのようなれ足す言葉を口にする人もいます。
コメント
私は最近「レタス言葉」が氣になって調べ出しました。
一体いつ頃からあるものなのでしょうか。
私としては、「ら抜き言葉」の「レル」が可能態として使用され
一般化したところからのその影響力の発露と考えて、
近年発生してきていると見ているのですが
用例は、何処まで遡ることが出来るのでしょうか。
ら抜き言葉の積極肯定の論説に初めて接しました。
機能分化と捉えれば、ら抜き言葉のほうが合理性が高いということになります。
英語で言えば、不規則動詞が規則動詞になるというところ。
れ足す言葉も合わせて、早く機能分化が完了しないかと、私も期待してしまいました。
機能分化に対し人が何かを行うことはできず、まさに自然現象なので完了を待つしかないのですが、このペースでいくと間違いなく完了する日は来ます。そのとき日本語教育業界の教科書が様変わりしているのかを見るのが恐ろしくもあります。