シーボルトが日本やオランダ、ヨーロッパに与えた影響

 シーボルトという日本ではよく知られた名前のオランダ人を軸に、彼が日本に与えた影響、オランダやヨーロッパに与えた影響を論じる。

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シーボルトについての概説

 まずは、シーボルトについて概説する。シーボルトが長崎に着いた1823年、シーボルトは27歳だった。それから日本を追放されるまでの6年間、シーボルトが果たした役割は多岐にわたった。1859年に国外追放を解かれ(オタキさんとの別れ)、再来日した。

1828年(文政11年) オランダ商館付のドイツ人医師シーボルトに諜報の嫌疑がかけられ、連座した天文方・高橋景保ら処罰される(シーボルト事件)。

 彼は一度目の在日6年の間に日本の植物のさく葉標本を蓄え、植物画という資料を蓄積していった。同時に、川原慶賀といった日本人絵師によって描かれた膨大な植物画(ボタニカル・アート)をオランダに持ち帰っている。それらが基礎になって、1835年に、日本を追われたシーボルトはオランダで日本の植物を解説した『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』の刊行を始めた。当時のヨーロッパはボタニカル・アートの最盛期だった。『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』の刊行は、日本の植物をヨーロッパに広める好機でもあったのだ。

シーボルトの功績

世界初の植物の通信販売

 シーボルトは世界で初めて植物の通信販売を始めたことでも有名だ。出島の植物園は、シーボルトの植物研究のためのものではなく、オランダが植民地経営のために世界に張り巡らせた大きな植物園組織の一角であった。

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植物を生きたまま持ち帰る技術

 シーボルトの研究によって、数々の日本の花が海外へと紹介された。その中の代表格として、アジサイ、レンギョウ、ツバキ、サザンカ、イタドリ、シキミ、コウヤマキ、キリ、ウメ、ユリ、ボタンがある。たくさんの日本の植物を生きたままヨーロッパに持ち帰った。(当時は9割が枯れ1割が生きたまま運搬されていたが、それを逆転させた功績も大きい)。

園芸ブームの立役者

 シーボルトの植物学への目覚めを与えた大先輩にあたるケンペルとツュンベリーもシーボルトと同様に、日本特有の植物を採取し、日本文化の研究成果を広くヨーロッパへと伝えた。ヨーロッパにおける日本観は、彼らによって形成されていった。一大日本ブーム〈ジャポニスム〉や園芸ブームはこの三人が起こしたものであると言っても過言ではないだろう。

医学

 日本には、グラバー園のせいでシーボルトを植物の専門家だと考える人が少なくないが、彼は医学でも大きな影響を日本に残している。例えば、シーボルト再来日後、創設した鳴滝塾で学んだ人たちは故郷に帰ってから自分の塾をひらき、各地に蘭学者が誕生した。緒方洪庵や高野長英もこの中の一人だったのだ。

日本語教育

19c半ば、彼の書いた本がオランダのライデン大学日本語科にある。同校はヨーロッパ初のJSL(Japanese as a Second Language第二言語としての日本語だった)

 

 以上、シーボルトの功績について述べた。他にもここには書ききれないほどの功績を彼は残しているが、これだけでも彼が日本に与えた影響の大きさがわかるのではないだろうか。

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